About me
2005年に中国初渡航、2010年より中国一人旅を始め、短期長期含めおよそ50回ほど渡航を繰り返し2019年8月に四川省宜賓市移住。 転機は2018年夏、8年間勤めた会社を退職し叶えた、38日間中国周遊旅行。ビザのトラブルでしばらく四川省に滞在することになり、しかしその結果四川に恋をする。それまでは中国どの地域にも思いは平等だったが、もう四川以外考えられずに海を渡り、現在に至る。


小さな蒸気機関車が走る四川省楽山市犍為県へ

まだ夜も明けない真っ暗な空、楽山市街地から長距離バスに乗り向かったのは岷江を宜賓市方面に下った犍為県でした。

長いあいだ旅への壁となっていた疫病管理が一段落し、私はいま四川各地を再訪する旅へと出ています。その再訪地の一つとして楽しみにしていた犍為県は、その界隈には有名な小さな列車──小火車が走るのです。

もう一度、あれに乗りたい。期待に胸膨らませた指先かじかむ冬の朝は、もう間もなく春節を迎えるというある日でした。

 

 

犍為県へ着き、路線バスに乗り換え、そうしてなんとか10時半の発車に間に合い始発の躍進駅へ到着することができました。すると渡ろうとした踏切がカンカンカンカンと音を鳴らし始め、目の前を小さな蒸気機関車がもくもくと黒煙を上げて通り過ぎていきます。

いよいよ、お出まし。恋焦がれた小火車はその小柄な体とはうらはらに力強い汽笛を空に放ち、到来を待っていた乗客の前に堂々と姿を現しました。

 

 

なぜ小さいのか?

ところで小さな蒸気機関車とはいったいどういうことなのでしょうか。

実は、私たち日本人が想像するそれよりもずっと小柄な車体こそがこの鉄道の魅力でもあります。ではなぜ車体が小さいのかといえば、それは線路のレール幅が狭いから。いわゆる狭軌鉄道というもので、その狭さは線路を眺めてみれば一目瞭然。日本で在来線の多くに採用されている軌間も狭軌に分類される1067㎜軌間ですが、それよりもさらに狭い762㎜というこの軌間は寸軌とも呼ばれておりたいへん珍しいものです。

 

その名も芭石鉄路。かつて住民の足として彼らの生活を支えてきたこの小さな鉄道は今、嘉州(楽山の旧名)の南に位置する嘉陽にあり、嘉陽小火車と呼ばれ鉄道ファンのみならず全国から人を集める大人気路線となりました。

 

いよいよ出発!

 

プォーッと長い汽笛を一発吹かせ、とうとう列車は躍進駅を出発しました。

始発の躍進駅から終着の芭蕉溝駅まではわずか19.84㎞、時間にして一時間と少しといったところでしょうか。レールや車体だけでなくその路線も速度も小規模なかわいらしさですが、「あなどるなよ」とでもいうかのように、屈強な体に荒い肌を見せながら力強く大量の黒煙を吐き出し、幾度も幾度も汽笛を響かせ進みます。

 

──がたんがたんと、座席から伝わる振動。

旅客車両に満ちる、石炭のにおい。

がっがっと力を込めて開けた窓から吹き込む風。

煙でくすんだ窓ガラスの向こうを流れていくのは山風景。

時折車窓を過ぎていくのは線路沿いに暮らす人々の民家。

住民が線路の隅によけて車両の通過を待ち、また放し飼いにされた鶏たちがレールから慌てて逃げる。

遠くで農作業をしていたおばあさんは、腰を上げてこちらに向け手を振った。

息を飲むような絶景はなくとも、美しい鉄道の旅は乗客すべての心を掴んでいるようでした。

 

 

やがて列車はカーブの先に待つ蜜蜂岩駅で停車しました。Y字のように二筋のカーブを一つに束ねた位置にあるこの駅は、行き止まり。ここは車両の前後を転換する中継地でもあり、一つの見どころでもあります。

 

頭から入った蒸気機関車はここで一度旅客車両から離れ、そして隣に並行して伸びるレールを通りこれまで後尾だった位置に接合されました。

──ぎいいい……。がしゃん!

これまでお尻だった方は次は頭に、これまで頭だった方は次はお尻です。それまで進行方向に背中を向ける席だった私は、この先は快適な車窓となりました。

 

 

菜の花が咲き乱れる二月から三月にかけてはチケットの入手が難しくなるほど人気のある鉄道ですが、春節休暇シーズンだというのに菜の花シーズンを待ってか本日はたったの一両編成です。寸足らずでやや間抜けなシルエットではありますが、しかし実はそんな乗客の少ない時こそ狙い目。閑散期ゆえに車両は一両、となると必然的に蒸気機関車を目の前に見ての旅となるのですから。

 

最前列に座る子は半腰を上げて見入っています。もくもくと後方に流れていく黒煙や山になった石炭のつややかな肌は車窓を流れる山景色に負けない魅惑をもち、いくら眺めていても飽きません。

 

 

そうしてまた停車の時を迎えました。場所は亮水沱駅、降車を促されますが乗客のほとんどが事情を理解しており、指示を待ちきれず競うように各々が狙う場所へと急ぎます。

では私はというと、私が向かったのは坂を登ったやや高い位置でした。視界には線路が気持ちの良いカーブを見せています。

 

──がたがたがたがたがたがたがた……。

「おい、今はまだ見るんじゃないぞ」とでもいうかのように、蒸気機関車はこっそりと元来た道を後退しやがて木陰に消えました。かと思えば──。

 

 

──プォォォォォー!

蒸気機関車、登場。

息の長い爆音の汽笛とともに頭上からは煙を勢いよく吐き出し、けれどもそれに合わせてL字を象るように足元からも激しい蒸気を吹き出しています。

汽笛、煙、蒸気、この息はいったいいつまで続くのか──と息を飲み見守る乗客の目の前で、「写真ちゃんと撮ったか?」と言ったのかどうか、蒸気機関車はゆっくりと惜しむように停まりました。

 

 

嘉陽小火車の旅はあっという間でした。漆黒の闇を作るトンネルはこの小さな列車でさえもかろうじて通り抜けられるほどのぎりぎりの狭さで、そんなトンネルを一つ越え、また一つ越え、闇から突如まぶしい光を浴びたかと思えばもうそこは終着の芭蕉溝駅でした。

 

乗客を降ろすと、蒸気機関車は点検の時間に

 

乗客の視線など構わぬふうで点検は進み、石炭が赤々と燃えるボイラーに放り込まれます。

近づいて覗き込んでみれば、ずいぶんと歳を重ねた肌、ずいぶんと複雑な構造。石炭のにおいが鼻をくすぐり、むんむんとした熱気が肌に当たります。こんなふうに触れることのできる近さで蒸気機関車を体感することができるのも、嘉陽小火車のありがたさでしょうか。

 

 

終着駅から離れ坂を下っていくと、その先にはレンガ造りのソビエト式建築や英式建築が建ち並ぶ街へと続きます。嘉陽小火車の旅は乗車だけではありません。なぜなら、その街は芭石鉄路の一部、その街こそが芭石鉄路の歴史だからです。

 

芭石鉄路の始まり

 

芭石鉄路の始まりは1938年のことでした。時は日中戦争のさなか、河南省の石炭会社が日本軍による攻撃から逃れ、ここ芭蕉溝(現・芭溝鎮)や他、四川省内の三箇所へ拠点を移したのです。そしてイギリスとの合資会社である嘉陽煤鉱股份有限公司がここに誕生、以降この芭蕉溝一帯は炭鉱の街として隆盛を迎えました。

 

その石炭を運ぶ足となったのが鉄道です。生産された石炭は当時600㎜軌間の列車で運ばれ、最後は水運に乗り重慶などに運搬されていたといいます。ところが1958年、水力発電所の建設に伴い水運に支障が生じるようになり、やがて本格的に鉄道が建設されることになりました。それが今ある芭石鉄路の始まりです。

 

 

芭石鉄路が完成し開通したのは1959年7月。それまでは600㎜だった軌間も、1960年には全線762㎜、つまり現在運用している軌間に改められました。

けれども姿を変えたのは軌間だけではありません。石炭の運搬から、やがてはそれだけではなく炭坑で働く労働者たちの足に。山の中で暮らす人々にとってこの小さな列車は唯一の交通手段であり、もはや不可欠な存在となっていました。

 

ところが1980年代後半、廃線となることが決まってしまったのです。

この時すでに炭鉱は枯渇し始めており、それに加えて車両の老朽化も問題となっていました。国内での蒸気機関車の製造が停止したことに伴い修理に必要な部品も手に入らなくなってきていたのです。そして、運行停止が決定。けれども、ではこれを唯一の足とする住民はこれからどうすればいいというのでしょうか。

結果、その決定は覆り、高額の維持費を抱えながらも鉄道の運行は継続されることになりました。

 

芭石鉄路は人だけではなく家畜までも運び、住民の生活の一部となり彼らを支え続けました。ところがまたもや、運行停止が決まってしまったのです。

住民の生活は時代変化とともに、この小さな鉄道ではもはや支えきれなくなっていました。開発により山にもようやく道路が通りました。もう皆、この古びて費用のかさむ蒸気機関車に依存しなくても生きていけるのです。

芭石鉄路が開通して以降、47年間という歳月が経っていました。

 

 

いま運行している芭石鉄路の嘉陽小火車は、この二度に亘る運行停止の決定を覆してあるものです。開通して以降、一度たりとも休むことなく人を乗せ続けてきたこの蒸気機関車は、その小さな車体に見る美しさとともにこの途切れたことのない歴史にこそ重みがあります。

 

それは、手放す要因が次々と生じながらも手放すことのできなかった訳──、住民の想いが形を成したものだから。運搬手段から移動手段へと移り変わり、しかしそれはすでに手段ではなく人々のそばに常にあり続けたものとして、もはやなくてはならない存在となっていたのです。

 

 

奥へ奥へと続く石レンガ建築は、住居から巨大なオフィス建築など様々。それら一つ一つに旧時代の躍動と時代推移を感じます。また最奥には1939年から1986年まで採掘作業が行われた嘉陽煤鉱の一号炭坑跡が一般公開されており、この街を旅する魅惑は尽きません。

炭坑の街は今、この小さな列車を楽しみに足を運ぶ人々を待つ旅の街となりました。

 

最後に

 

時刻はちょうどお昼を迎えるところです。チケットを購入した復路便の出発は16時半ですので、まだまだ時間はたくさんあります。

さあ、どこをどうやって散策しよう。そう胸をときめかせながらも、まずは楽しみにしていたお昼ご飯をいただきましょう。

「ごはん、食べていってよ。」

誘いの声に呼ばれ腰かけ、頼んだのはおかず二皿に、もう一つは枸杞を漬けた白酒を。腊肉の筍炒めを箸ですくい白酒をくいっと一口いただけば、ほんのり回る酔いに体は暖まり、気分は極上。

一度では飽き足らず幾度でも足を運びたくなる嘉陽小火車は、小さな蒸気機関車と住民の人情が手を結んだ温かな旅情に包まれていました。

 

 

~アクセス情報~

嘉陽小火車 躍進駅

楽山市犍為県芭溝鎮嘉陽国家鉱山公園内

犍為中心バスターミナルから道路挟み対面に待つ三井行きのバスに乗り40分。

 

運行ダイヤは週末で3便~4便/日、平日で1便~3便/日だが変動あり、事前確認が必要。

(閑散期でもチケットは事前購入をするのが無難)

◆躍進駅—芭蕉溝駅 往復160元 片道80元

(芭蕉溝駅の近くにも犍為中心バスターミナルへ向かう路線バスが通るため、片道も可能)

◆黄村井煤鉱探秘ツアー 80元

 

 

 

 

 

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中川正道
中川正道、1978年島根県生まれ。四川師範大学にて留学。四年間四川省に滞在し、四川料理の魅力にはまる。2012年にドイツへ移住。0からWEBデザインを勉強し、フリーのデザイナーとしてドイツで起業。2017年に日本へ帰国。「人生の時を色どる体験をつくる」をテーマに妻の中川チカと時色 TOKiiRO 株式会社を設立。
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