About me
2005年に中国初渡航、2010年より中国一人旅を始め、短期長期含めおよそ50回ほど渡航を繰り返し2019年8月に四川省宜賓市移住。 転機は2018年夏、8年間勤めた会社を退職し叶えた、38日間中国周遊旅行。ビザのトラブルでしばらく四川省に滞在することになり、しかしその結果四川に恋をする。それまでは中国どの地域にも思いは平等だったが、もう四川以外考えられずに海を渡り、現在に至る。


四川省の僻地「僰人(ボォレン)」の里へ

初めてここを訪れたのはちょうど四年前のことでした。

山々と田畑が織りなす長閑な田舎景色に囲まれた小さな人里であり、また朽ちながらも一部に残る古民家が歴史を思わせる村落でもあります。けれどもそのような場所など四川には数多あり珍しいものでもなく、ではなぜわざわざここまで足を運び再訪したかといえば、それはここが僰人ゆかりの地だから。

────珙県洛表鎮、山間バスを降りるとさっそく僰人故里の四字が目に飛び込んできました。

 

 

僰(ボォ)人という名どころか、僰の一字を初めて目にするという方もいらっしゃるかもしれません。

 

僰国を築いた古代民族

僰人はかつて四川南部に僰国を築いた古代民族であり、しかし文字をもたなかったことから今も多くの謎に包まれています。史料により少なくとも秦代には存在していたということがわかっているようですが、牧野の戦いに参じ周の武王に加勢したという話まで伝わるそうで、その真偽はともかくとしてルーツの古さだけは確かだといえるでしょう。

 

その僰人が王城を築いたのが宜賓市南部だというのです。宜賓市南部には広範囲に亘りカルスト地形を中心とした奇岩風景が広がり、それらが「石の海」と呼ばれていることは以前こちらでもご紹介しました。勇猛果敢な性格だったといわれている僰人は、山、とりわけ岩場での生活を好み、この「石の海」を居住地として選んだというのです。

 

現在は四川省で苗族が最も多く集まり暮らす宜賓市珙県と興文県は、かつて僰人が支配する岩山の王国でした。その中でも僰人故里を名乗るここ珙県洛表鎮には、僰人がもっていたというある独特な風習が足跡を残しているのです。

 

 

とはいえ、遠路遥々。明朝あらためて散策することにしましょう。

歩けばすぐに抜けてしまう一筋の道路、その左右に民家や店が並ぶ小さな居住区で、飲食店の選択肢もそうありません。その中で目に入ったのは、宜賓グルメの代表格ともいえる焼烤でした。「またそれ」ではありますが、店名に僰郷を掲げており、僰人を追う旅には悪くないでしょう。

 

僰郷焼烤を食べる

 

白酒を頼みサービスでついてきた揚げエンドウ豆は、おつまみの定番。それをカリコリといただきながら運ばれてきた串もまた、鴨腸、牛肉、面筋、ツブ貝、お餅、小粒ジャガイモなどと山盛りです。具材ラインナップの中には宜賓焼烤としては遭遇率の低い、豚足やイナゴや牛蛙や鴨頭などもありました。しかし二ターン目に行くこともなく満腹となり、本命である明日の予定を前にして酔っ払いの有様です。

 

絶壁にある懸棺

 

朝を迎え、天候はまずまず。山々に囲まれた洛表鎮にはタクシーなどあるはずもなく、およそ3㎞もの道を歩いていきます。荒々しい表情の岩肌を見せる山、そこに茂る木々。軒先を飾る竹椅子、自由奔放に寝そべる犬猫、商売をなかば放り投げたような小さな商店。いずれも記憶のままの道、脳裏に浮かぶ四年前の情景と答え合わせをしながら進む先に、「それ」はさっそく姿を現しました。

 

 

この中に隠れる、奇妙な人工物がおわかりでしょうか。

まず左下に確認できるのは、岩肌のくぼみに重ねられた棺。岩壁上部には幾本もの杭が差し込まれ、その上には棺がのせられています。また、よく目を凝らしてみれば岩の割れ目にはめ込まれた棺も。なんと棺が、見上げる高さの崖肌に懸かっているのです。

 

古代民族僰人は、岩山と共に暮らし岩山と共に生きました。そんな彼らは人の生を見送るとき、このような険しい岩肌に、しかも見上げるような高所に弔ったといいます。

このように崖肌に弔う葬法を、懸棺と呼ぶそうです。世の中には土葬あり、火葬あり、鳥葬あり、風葬あり、しかし懸棺とは。そもそも岩山に暮らすこと自体が便利さを追求する人の常とは異なる性格を示していますが、であるからこそ奇妙で風変わりな風習として、この僰人懸棺は世の注目を浴びることとなりました。

 

とはいえ、この広大な大地。中国では時代も風貌も様々に各地で懸棺が見つかっているらしいのです。確かに、四川省にこうしたものが見つかったならば他所に同様のものがあっても不思議ではありません。ところがなぜ、これだけ長い文明の歴史をもち、これだけ広い大地でありながら、中国国内で発見されている懸棺のうちその大多数を占めるのは宜賓南部、とりわけ珙県と興文県の両県だというのですから。これはやはり、懸棺は僰人ならではの風習であった、と見てもいいのではないでしょうか。

 

 

3㎞に及ぶ散歩道の終着は、麻塘村です。

 

懸棺が最も多く見つかっている麻塘村

目に映る山々はいずれも岩山であり僰人がいかにも好みそうな様相をしていますが、畑が広がり、民家が点在し、道路が渡り、絶景というわけではなく秘境というわけでもなく、ありふれた農村風景。でありながら、この小さな村では実に334基もの懸棺が、396もの壁画が、発見されているといいます。麻塘村は宜賓市内で懸棺が最も多く見つかっている村落であり、また言い換えれば、中国国内で懸棺が最も多く見つかっている村落ということ。つまり、懸棺を目にしてみたいならまずはこの村へ足を運べばよいのです。

 

四年前は、懸棺が集中して残る九盞灯と呼ばれる辺りを目前にした絶妙な位置で、住民の方々がチケットを販売していました。ところが再訪してみれば無人、関連の建物はみな戸を閉ざしています。ただ四年前も今も変わらないのは、誰もこの存在を知らないのではないかと思う程の閑散ぶり。気の毒なまでに鳴く閑古鳥は国内随一の懸棺史跡とは思えない寂しさですが、交通の便の悪さ、ということにでもしておきましょう。

 

 

見上げれば、首の痛くなる高さに懸かった棺がこちらに底を見せていました。またそれらの背景を演じるかのように、岩肌には夥しい数の穴が穿たれています。棺を残すところ、杭のみが残るところ、そんな様子と木材が見せる腐敗のひどさを合わせみれば、あるいはこれらの穴にも元々は棺が懸かっていたのかもしれません。

そういえば昨晩は激しい雨に遭いました。ただでさえ降水量が多く湿度も高い四川にあり、木材の腐敗は避けられない問題でしょう。けれどもその一方で棺の一部は、まるで雨風を避けるかのように突き出た岩を天然の屋根にして生きのびていました。

 

 

僰人は文字をもたなかったがゆえに、当事者視点での文字資料が一切ないといいます。しかしその代わり、象形文字を思わせるような原始的な壁画が描かれていました。

 

それはもちろん、ここにも。ところがこれがなかなか難しいのです。赤い塗料で太陽や車輪を思わせるマークや動物や人物の姿が描かれているのですが、どれもこれもがかなりの高所にあり、さらに岸壁側面ではなく突き出た岩の裏側など人技とは思えない難所に描かれているのですから。

 

目でそれと確認することさえ難しい、そのような壁画を高所作業車もない時代にいったいどのようにして描いたのでしょうか。いえ、それよりも。高さあり、激しい凸凹を見せるこのような危険な崖肌に、いったいどのようにして棺を懸けたのでしょうか。

崖の上部から吊り下げた、地上から土嚢や杭を利用し担ぎ上げた、様々に可能性が挙げられたもののいずれも想像の域を出ず、未だ謎のままなのだそうです。

 

四年前には、かつて調査のために崖から下ろされた棺を目にしました。被葬者とともに副葬品として納められていた貨幣や景徳鎮などから明代のものだと判明し、また被葬者が僰人をルーツにもつ都掌族であることもわかりました。しかし、肝心の懸棺にまつわる謎や僰人がまとう神秘は変わらぬまま。

 

僰国首領の弟二人が砦を置いたという九絲城山全景

僰国首領の弟二人が砦を置いたという九絲城山全景

 

 

僰人が神秘をまとっているのには、岩場での生活や懸棺といった風変わりな風習に加え、文字をもたなかったために解明が難しいことや、古代より長い歴史を紡ぎながらも最後には滅びてしまったことなどが挙げられるでしょう。そう、僰人は滅んだのです。しかもそれは長い王朝歴史を眺めてみればそう古い話でもなく、明代万歴元年のことでした。

 

僰人の旅は宜賓市興文県九絲城鎮建武村へ

僰人終焉の地は珙県の東、興文県九絲城鎮にある建武村だということがわかっています。

思い返せば私が建武村を訪れた時にもまた長い道のりでしたが、その道中に望むあの山も、また九絲城鎮のすぐ裏手に聳えるあの山も、僰国が終焉を迎える際に首領兄弟が砦を置いていた「最後の砦」であり今もまだ建物の跡や戦火の痕跡が残るのだそうです。

 

建武村へ向かう道で通り過ぎた懸棺の跡

 

文字をもたなかった僰人の存在とその終焉を伝えるのは、王朝側による記録でした。明代を迎え、僰国と明は幾度も戦火を交えていたといいます。僰国が反乱を起こし明朝が制圧した、このように表現されるのは歴史とは勝者が記録を残していくものだからです。僰人の最期を記したのが滅びた僰人であるわけもなく、それは明の筆によるもの。その証は建武村の一角に残されていました。

 

民家に囲まれ隠れるように残る西蜀平蛮碑

 

眼下に九絲城山を望む建武村は、なだらかな山の上。その小さな村には今、五基の石碑が民家に紛れながら残されています。

その名も、西蜀平蛮碑。字の並びからもわかるように、明による僰国討伐が明朝視線で記録されたものです。20年にも亘る度重なる戦火により、僰国はこの九絲城鎮一帯にまで追い込まれていました。そして万歴元年、僰人は明と12度目の戦火を交え、九カ月にも亘る戦いの末ここに滅びたのです。

 

僰人が絶滅した翌年、ここに西蜀平蛮碑が建てられ、それまで僰国首領が砦を構えていたこの地は武寧城と改められ明により新たに城が築かれました。それはいわば歴史文化の上書き。新たに築かれた明清建築はつい最近まで残されていたそうですが、私が訪れた時にはすべて取り壊され現代ごく普通の村落風景となっていました。つまり、今の建武村に僰人自身の痕跡など一つもない。

皮肉なことに、文字をもたなかった謎多き僰人について最も明確にされているのはその最期であり、さらにはその最期を証明するのもまた仇の操る文字なのでした。

 

こうして僰人は滅び、時代は変わりまた代わり、彼らの風習であった懸棺は好奇の視線を集める観光史跡となりました。この度二度目の訪問までした私もまた、その好奇の視線の一つでありましょう。

けれども立ち止まってみれば、これらはみな無名の人々を弔う墓所。

あの朽ちて黒ずんだ棺の主は確かに人。

 

 

最後に

日本人の多くは、愛する人を失ったならば死後もそばに寄り添いたいと願うことでしょう。それは仏壇であったり、墓参りであったり、遺影であったり、形見であったり────。

 

ところが僰人の懸棺といえば、いくら岩山を好む彼らとはいえ近づくこともままならない難所に弔うのですから。死者を弔うどころか、それを見送る生者の命が危ぶまれる危険を冒してまでそれをしたのですから。

岩山とともに生きた民族ゆえ、急峻な崖場こそがわが身に最も近いと感じたのか。はたまた、アニミズムによる何かによるものか。天空へとより近づけるためか。時代も習俗も異なる人々の死生観に想像を巡らせながらも答えはありません。

 

私がこれまで目にしてきた僰人懸棺の多くは、すでに被葬者を失うか、でなければもう間もなく崩れてしまいそうなほど腐敗したものでした。四年ぶりに訪れた麻塘村のそれも同様で、もし本格的な観光地化へ踏み切るのならば、いずれは棺を模した「新品」が用意されるようになるかもしれません。

けれども死者を弔った人もそれを知る人もいなくなり、残されたものまでが次第に消えていく様は、それこそ生や死の本質とどこか重なりはしないでしょうか。

 

行き方

 

僰人懸棺

四川省宜賓市珙県洛表鎮麻塘村

宜賓市南岸バスターミナルから珙県行きバスに乗り一時間。珙県市街地に着き、芙蓉大道ロータリー付近の路上(または珙県バスターミナル)から洛表行き、または王家方面行きのバスに乗り二時間、洛表で下車。洛表鎮から徒歩30分。

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中川正道
中川正道、1978年島根県生まれ。四川師範大学にて留学。四年間四川省に滞在し、四川料理の魅力にはまる。2012年にドイツへ移住。0からWEBデザインを勉強し、フリーのデザイナーとしてドイツで起業。2017年に日本へ帰国。「人生の時を色どる体験をつくる」をテーマに妻の中川チカと時色 TOKiiRO 株式会社を設立。
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